幼児教育に入るきっかけがたとえ「お受験」であろうが、自分を大事なものとして考えられるということは大切なことでしょう。都会の親たちは、この意味である種幸せだと思っています。人間は目標がないとなかなか飛びつけない。目に見える成果がなければ、日常を破ってとりかかることはできないわけです。幼稚園受験、小学校受験、それぞれ立派な学校がこういう子供がほしいのだと明らかに提示してくれているわけです。たいへんわかりやすい。そしてまた、そう提示された時に、それにむかって親も子もともに精神を鍛えていくことが、果たして間違っているでしょうか。丈夫なからだ、やさしい心、そして考える頭です。本当にやさしい気持ちになれる人は、考える頭をもった人です。考える頭がなければ、他人に対して必要なものを提供することができません。自分に力がなければ、相手を思いやることはできません。自分に体力がなければ自分が生きるのに精一杯です。体力があまっていれば、他人のためにそれをつかうことができるのです。これは碓かなことだと思います。頭もそうです。自分に考える力がなければ相手のことを思いやって、相手を励まし、慰め、アドバイスすることができるはずかおりません。
ガングロメイクには、アーティストのアンテナに引っかかる何かがあるらしい。それは、何のコピーでもないまったくのオリジナルであること、可愛らしくて受けの良さを狙いがちな日本女性の化粧の伝統を大きく逸脱していた点にあったように思う。確かに独創的ではあったガングロギャルは、いったん表舞台から姿を消した後、2003年末に復活を遂げた。今回つけられた名前は、ヤマンバではなく「マンバ」だ。ヤマンバとの違いは、日焼けによるシミを恐れて、日焼けサロンで肌を焼くのではなく、化粧品を使って肌を黒くしていることと、転んだときのリスクを考えて、厚底ブーツではなくサンダルを履いていることにある。肌や足への影響を考慮し、安全策に走るのがマンバ流だ。ガングロメイクは捨てがたいが、元の肌を焼くのはいや。日焼けやシミは恐いというマンバたち。日本女性の根底に流れる価値観はやはり美白のようだ。
「個人葬」を中心から見ていくと、遺族、親戚、地域共同体、企業共同体と広がっていき、故人の社会性が広がれば広がるほど、地域共同体、企業共同体という外枠が大きく拡大する、という構図である。高度経済成長期以降の特徴として、死者である本人の社会性だけではなく、本人以外の遺族の社会性が大きく葬式を左右するようになったことがあげられる。息子の会社関係者等、本人とは無関係の第三者が葬儀に参列するようになった。この第三者が参列者の中でもっとも多数という葬儀が一般化した。地域によっては、今でも葬式の予算を決める役割や、葬儀会場での受付などをコミュニティの人々か行うところもあるか、それでも共同体としての結束力が時代とともに弱まっていることに変わりはない。